| 【応仁の乱】
京都を焼け野原にし、戦国時代の幕開けとなったた応仁の乱。元は家督相続などをめぐる畠山一族の内紛だったが、ここに山名宗全や細川勝元ら強力な後ろ盾が加わることで、規模は一気に拡大。足利幕府の権力争いも背景に11年間の大乱に突入していく。
この大乱の勃発地点になったのが、御霊神社の森だった。畠山政長がここに陣を敷き、山名宗全らが加担した畠山義就の軍と対峙したのが室町時代の応仁元年(1467年)1月18日未明。戦いは一昼夜に及び、緒戦は政長が敗れて敗走したが、こちらにも細川勝元がその後に後ろ盾になり、形勢挽回。何度もの激戦をくりかえした。

その激戦地として知られるようになったのが、百々(どど)橋で御霊神社から約700メートル南西の小川通寺之内、表千家の門から10メートルほど南へ行ったところ。昭和38年に埋め立てられた小川に架かっていた橋は、当時は幅約4メートル、長さ約7.5メートルの木の橋だったが、のちに石橋に架け替えられ、今はその礎石が激戦地の跡に置かれてある。
さらに南西へ400メートルほどいったところに山名宗全の邸跡を示す石碑が建っている。山名町という地名も残っており、宗全がここに陣を敷いて政長・細川軍とにらみあった。政長・細川軍の西に陣を敷いたことから、このあたりが「西陣」といわれるようになり、織物産業の代名詞のようになった。
《所在地》
御霊神社 京都市上京区上御霊堅町 (地下鉄・鞍馬口下車徒歩5分)
百々橋 京都市上京区小川通寺之内
山名宗全邸跡 京都市上京区堀川通上立売下ル一筋目西北角
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