【本能寺】
「敵は本能寺にあり」
明智光秀が毛利攻めのきびすを返して、織田信長の宿所・本能寺へ向かったのは天正10年(1582年)6月2日。寝込みを襲われた信長は火の中で自刃して果てた。
その本能寺は、油小路通蛸薬師、堀川高校の裏、旧本能小学校のところにあった。いまは、京都市の福祉施設などが建っているが、その前に本能寺跡の石碑がある。ただ、この石碑をよく見てもらうとわかるが、「能」の文字のつくりは「ヒ」が2つではない。
それには、何度もの火災にあった本能寺の歴史が関係している。室町時代の応永22年(1415年)に創建されたが、約100年後の天文法華の乱で消失。天正10年には明智光秀によって焼かれた。さらに豊臣秀吉の区画整理で現在の堀川通寺町の地に移ったあとも、江戸時代の天明2年(1788年)に天明の大火、元治元年(1864年)には蛤御門の変で焼けてしまった。このほかにも2度焼き討ちにあっている。
というわけで「ヒ(火)」が重なるのはこりごりと、昭和3年から現在のように、「ヒ」が「去」るようにとの願いをこめて行書体のこのような字になった。
現在は修学旅行生や観光客がひっきりなしに行きかう寺町通りに門を開く本能寺。ここには本能寺の変を物語る遺物も数点残っている。本堂に安置されている日蓮聖人像は室町中期の作で、本能寺の変も含め何度もの火難をくぐりぬけてきた。また、宝物館に展示されている「茄子茶入れ唐物」には火で焼かれたため変色した跡が残っている。このほか、「ぎぼし」や「菊形鉄水盤」など、波乱の歴史を秘めて静かに建っている。
《所在地》
旧本能寺 京都市中京区油小路通蛸薬師
(阪急電車・烏丸下車徒歩10分)
(市バス・堀川蛸薬師下車徒歩5分)
現在の本能寺 京都市中京区寺町通御池下ル
(地下鉄・京都市役所前下車すぐ)
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