「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり…」
平家物語に描かれる平家一門やその周辺の人たちの栄枯盛衰。人の強さと弱さ、賢さと愚かさの物語が、平安京を舞台にまず語られている。今もあちこちに点在するその足跡を追って、京都の町を眺めてみた。
藤原氏を中心にした摂関政治にほころびが見え始めた12世紀。伊勢の武装集団だった平氏が力を蓄え、保元、平治の乱を通じて一気に台頭。院政の狭間で、御所に仕える武士として着々と地盤を固めていく。
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| 六波羅第跡の石碑 |
この時代の平家の根拠地が六波羅第。現在の六波羅蜜寺(東山区)のあたりに広大な敷地を有していたといわれる(地図)。同寺の南東に接している洛東中学の正門を入ったところには「此附近 平氏六波羅第 六波羅探題府」の石碑がある。ではいったいどこから、どこまでが六波羅第かというと、残念ながら明確にはわからない。ただ当時を思い起こさせるような地名が今も六波羅蜜寺の周辺には残っている。「西御門町」「北御門町」「池殿町」「門脇町」「三盛町」「多門町」…。店舗や民家がひしめく六波羅蜜寺の周りを歩いてみるとそれがわかる。かつて、このあたりを平家の権力者や時には天皇、公家も、馬や輿に乗って行きかったという。
平治の乱に父の源義朝とともに従軍していて平家につかまった頼朝も六波羅第にいた。宗清に連れてこられたわずか14歳の少年に哀れを感じた池の禅尼(宗子)が清盛に助命を嘆願。結局、継母の訴えに清盛が折れてその命を助けることになるのだが、これがのちに一族滅亡への大きな原因になる。この池の禅尼が住んでいた池殿が六波羅蜜寺の少し南、洛東中学から西のあたりになる。
清盛は義朝の妻、常盤御前の美貌にも目がくらんで、牛若(源義経)兄弟の命も助けている。権力維持のためには相手の一族を根絶やしにした戦国武将のような厳しさに比べ、まだまだ人間性が豊かだったように思われる。
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| 東福寺六波羅門 |
東福寺には六波羅門といわれるものがあり、六波羅第(六波羅探題)の遺構を移築したともいわれている。建仁寺の南にある重要文化財の矢ノ根門も六波羅第にあったという説。この門には鎌倉幕府滅亡のとき、後醍醐天皇方の放った矢の痕が残っている。とにかく数多くの邸が広大な敷地にあっただけに、門の数も多かったのだろう。地名やその遺構が今も附近に残っていても不思議ではない。
【洛東中】東山区多門町(阪急四条河原町、京阪四条徒歩10分)
【東福寺・六波羅門】東山区本町15丁目(京阪、JR東福寺徒歩15分)
【建仁寺・矢の根門】東山区小松町(阪急四条河原町、京阪四条徒歩10分)
<余談>
「幽霊飴」=六波羅第に隣接する東山麓はかつて鳥辺野といわれ、葬送の地だった。そこに残る悲しいお話が…。
いまから400年ほど前、若妻を葬った墓地で数日後、赤ん坊の泣き声が聞こえるので掘り返してみたら幼児がいた。当時、夜になると飴を買いにくる若い女性がいたが、幼児が掘り出されたあとはピタリとこなくなったという。この女性が幽霊になっても、お乳の代わりに飴を買ってこどもを育てた…。このことから、いつのほどか、この飴を「幽霊子育ての飴」というようになったと伝えている。
子供は高名な僧侶になったといわれているが、こんなお話にちなんだものが幽霊飴。六波羅蜜寺のすぐ近く、松原通りにべっ甲色の飴を売る店「みなとや」があり、観光客も訪れる。
【みなとや】東山区轆轤町(阪急四条河原町、京阪四条徒歩10分) |