文久3年(1863年)、生麦事件の報復で英国は艦隊を鹿児島湾に侵攻させ、砲撃を加えて力の違いをみせつけた。近代的な外国艦隊の底力を見せつけられて薩摩では「攘夷」の掛け声は次第にしぼんでいった。
このような情勢の中で公武合体派の薩摩藩は会津藩と組んで、尊王攘夷、倒幕へ過激に突き進もうとする長州藩の足元をすくう。いわゆる文久3年の「8・17政変」。朝廷内で攘夷を声高に唱える過激派公卿、三条実美らを失脚させた。また、孝明天皇の大和行幸にあわせて土佐脱藩の吉村寅太郎ら攘夷派志士らが計画した天誅組の決起も、政変で行幸が中止になったことで宙に浮いてしまった。
権力を失って追放された過激派公卿らは長州へ落ちていく。「七卿落ち」である。
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古高俊太郎邸跡の石碑 |
この劣勢のなかで巻き返しを狙う尊皇攘夷派の志士と、逆に勢いにのる新撰組が演じたのが元治元年(1864年)7月の池田屋事件。志士たちは御所に火を放ち、孝明天皇を長州へ連れて行き再起を図ろうという計画に従って暗躍していた。これに対して新撰組も警戒していたが、四条小橋で炭屋になっていた枡屋(古高俊太郎)がつかまり計画が発覚。さらに池田屋での謀議も新撰組に知られてしまった。河原町通四条上ルには古高の邸址の石碑がある。
近藤勇、沖田総司らに急襲された志士たちは9人が討たれ、4人が捕まった。ほかにも切腹して果てた土佐脱藩の望月亀弥太らがおり、壊滅状態。桂小五郎(木戸孝允)もこの席に出席する予定だったが、早く着きすぎたため池田屋からいったん引き上げて休憩している間にこの事件が起こったため助かったという。三条通木屋町には池田屋事件のあとを示す石碑が建っている。
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蛤御門 |
この池田屋事件を聞いた長州藩は同月、すぐに京都へ上り幕府軍との間で激しい戦闘を繰り広げた。これが禁門の変、とくに激戦地だったのが御所西側の蛤御門だったことから蛤御門の変ともいわれている。一時は蛤御門などで優勢に見えた長州軍も、西郷隆盛の率いる薩摩軍が加わった一橋慶喜の幕府軍の前についに敗退。戦いで生じた火の粉や長州藩邸などから出た火が京都の町を焼き尽くす大きな被害をもたらした。この大火を「どんどん焼け」あるいは「鉄砲焼け」といったが、北は丸太町、南は七条通、東は寺町、西は堀川と広範囲にわたり、800町、3万世帯近くが焼け出されたという。蛤御門の扉には弾痕がいまも残っている。
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六角牢獄で刑死した勤王志士の慰霊碑 |
また六角通大宮西入ルにあった六角牢獄にも火の手が迫り、脱獄を恐れた役人により、収容されていた志士30数人全員が首をはねられた。この中には、その自白で池田屋の謀議が発覚した古高俊太郎や平野国臣らがいた。獄舎跡には志士の慰霊碑があり、首洗いの井戸の枠も残っている。
激戦のすえ敗退、「朝敵」になった長州藩。敵にまわった薩摩との溝はこれで決定的になった。のちに坂本竜馬らの奔走で薩長同盟が結ばれたが、明治維新が遅れる原因になったともいわれ、維新後もさまざまな場面で感情の行き違いがあった。
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幾松入り口 |
一方、桂小五郎はすぐに長州へ引き上げず、新撰組の浪士狩りがますます厳しくなる京都にしばらく留まった。このとき小五郎を助けたのが祇園の芸妓・幾松。いまも鴨川沿いに残る料理旅館の幾松には、新撰組の目を逃れるために小五郎が隠れた大きな長持ちなどが残っている。
【池田屋跡】中京区三条小橋西入ル(京阪三条、地下鉄市役所前徒歩5分、阪急河原町徒歩10分)
【古高俊太郎邸跡】下京区真町(阪急河原町徒歩5分、京阪四条徒歩10分)
【蛤御門】上京区京都御苑(市バス烏丸下長者町すぐ、地下鉄烏丸丸太町、今出川徒歩5分)
【六角牢獄跡】中京区六角通神泉苑西入南側(阪急大宮、京福四条大宮徒歩10分)
【幾松旅館】中京区上樵木町(地下鉄市役所前徒歩5分、京阪地三条徒歩10分)
<余談>
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先斗町 |
先斗町=幕末の史跡が多く残る木屋町通と平行して東側を走るのが京都五花街のひとつ先斗町。鴨川と木屋町・高瀬川にはさまれて細い路地が四条から三条まで続く。「ポントチョウ」とは、ちょっと変わった読み方だが、名前の由来はポルトガル語で「先端」という意味。洛中側から西の鴨川に突き出していることからか。江戸時代に埋め立てられたところで、花街としては明治初めに正式に発足した。幕末動乱の頃にはすでに形が整いつつあったらしい。現在、お茶屋さんは32軒、芸舞妓49人で、だらりの帯の舞妓さんは9人。近くの祇園や宮川町とともに、京都の華やかな夜を演出している。毎年5月には「鴨川をどり」が行われるが、これは明治5年(1872年)、祇園甲部の「都をどり」とともにはじまった由緒あるもので、遷都に伴って火が消えたようになっていた京都に活気を取り戻そうという狙いがあった。 |