大政奉還、王政復古で大阪城へ退いた徳川慶喜だが、江戸での政府側の横暴や圧迫で会津や桑名兵から武力で薩摩、長州勢力を除くようにとの圧力が強まった。というより、武力倒幕を目指す薩長が挑発したというほうがよいかもしれない。
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小枝橋 |
大阪城の徳川慶喜は会津・桑名藩を中心にした旧幕府軍約1万5000の兵を京都へ向けて出陣させた。これに対して政府軍は薩摩、長州、土佐藩など約5000。現在の名神京都南インターの付近で朝からにらみ合いが続いたが、午後になって火の手があがった。慶応4年(1868年)1月3日、鴨川に架かる鳥羽・小枝橋付近。そこから数百メートルほど離れた政府軍のアームストロング砲が火を吹いた。これをきっかけに、戦火はいっきに広がっていく。戦端の地は現在、鳥羽離宮公園になっており、公園には説明看板がや顕彰碑が建っている。
数のうえでは旧幕府軍が勝っているが、装備の近代化という点では政府軍がかなり勝っていたという。
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御香宮 |
一方の伏見方面では、旧幕府軍に加わっていた新撰組が伏見奉行所に陣を敷いていた。ここより数百メートル北へ行った御香宮神社には薩摩藩が陣を構えている。薩摩藩の最新の大砲はここから約500メートルの目と鼻のさきの新撰組の陣所、伏見奉行所へ向けて打ち込まれた。負傷治療中の近藤勇を大阪に残して、土方歳三の指揮で戦った新撰組だったが、奉行所が炎上してしまい拠点を失って撤退を余儀なくされる。
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伏見奉行所の庭 |
いずれの陣所跡にも現在は石碑が建っている。また伏見奉行所にあった庭は現在、御香宮に移されて残っている。近くの京町通の老舗料亭「魚三楼」の出格子には激戦のあとを物語る弾痕も。いかに狭い場所で激戦が行われたか、これらの痕跡をみてもよくわかる。
翌日の4日は、両軍とも鳥羽と伏見で戦ったが、ここでも旧幕府軍はじりじりと政府軍に押されていった。旧幕府軍は伏見で敗れ、淀方面に向けて撤退した。この間に「錦旗」が政府軍に下されたことで、旧幕府軍は「賊軍」になってしまった。
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淀小橋址の石碑 |
以後、譜代の淀城を頼って引き上げてきた旧幕府軍は宇治川に架かる淀小橋を落とし、ここで体勢を立て直そうとしたが、誤算は淀城が政府軍に加担したため入城を拒否されたこと。追い詰められた旧幕府軍は迫ってくる官軍に向けて、淀小橋のあたりから大砲を撃った。この砲弾は約300メートル離れた妙教寺の本堂の板壁を打ち抜き、仏壇横の柱を貫通して堂内に落ちたが、その弾痕と砲弾が同寺に残っている。
錦の御旗の前に「賊軍」になった旧幕府軍は持ちこたえることができず、ついに大阪まで撤退。すでに大阪には将軍徳川慶喜の姿はなく、完全に軍は崩壊していしまったのである。京阪電車の淀駅近くには淀城の石垣がいまもひっそりと残っている。
このあと舞台は江戸城に移り、勝海舟と西郷隆盛の話し合いで「無血開城」が行われることになる。しかし、このあとも旧幕府軍の残存勢力の駆逐のための政府軍の戦いは続き、明治2年(1869年)、函館・五稜郭の戦いまで戊辰戦争が続いた。
【小枝橋】伏見区中島流作町(地下鉄・竹田徒歩30分)
【鳥羽離宮跡公園】伏見区中島御所ノ内町(地下鉄・竹田徒歩30分)
【伏見奉行所跡碑】伏見区桃陵団地(近鉄桃山御陵前、京阪伏見桃山徒歩5分)
【御香宮】伏見区御香門前町(近鉄桃山御陵前すぐ、京阪伏見桃山徒歩5分)
【魚三楼】伏見区京町3(京阪伏見桃山、近鉄桃山御陵前すぐ)
【妙教寺】伏見区納所町北城堀(京阪淀徒歩10分)
【淀城】伏見区淀本町(京阪淀すぐ)
<余談>
三川合流=鳥羽伏見の戦いの大勢が決まった淀での戦い。ここは宇治川と桂川に挟まれた三角州のようなところで、古代に巨椋池の淵だった。少し南の下流に行くと宇治川と木津川が出会い、そのすぐ下流で桂川に合流して淀川になる。
幕末に登場する淀城は徳川幕府によって築かれ、三つの川に守られた堅城だった。それだけに旧幕府軍もここで体勢の立て直しを図りたかったのだろう。城では巨大な水車で水を城内に入れていたという。
それ以前には豊臣秀吉が淀の方(淀君)のために建てた淀城があった。
また、ここは古くから交通の要衝として重要視された場所で、戦となれば馬の蹄が響いた。明智光秀と豊臣秀吉が戦った山崎は淀川の向こう側。天王山を望むこともできる。
淀城の近くには京都競馬場があり、今も馬の蹄の音が響いている?
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