出生の地、没した地…。いずれも諸説あり、枚挙にいとまがない。ただ、美人の誉れの高い彼女が20数年といわれる波乱の短い人生の中で静かに、穏やかに、幸せに暮らした時期が少しだけある。
母の磯禅師の影響もあって白拍子になった静御前が一番輝いた時が寿永元年(1182年)頃。世の中は木曽義仲が都へ迫り、奢れる平家の没落に拍車がかかって町中が騒然としていた。さらに何年も続く日照りで、鴨川や桂川が干上がっている。
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神泉苑 |
そこで行われたのが神泉苑での雨乞いの儀式。高僧が仁王経を講じたが効き目がなく、それではと白拍子100人が集められ、一人ずつ舞って、神泉苑に住むという八大龍王の力で雨を降らせようとした。しかし、99人まで舞ったが空からは一滴の雨も降らない。そこで最期に登場したのが静御前。すると愛宕山に黒い雲が沸き、雨が3日間降り続いたという。これは、頼朝の追っ手につかまって鎌倉へ送られた静御前について、梶原景時が頼朝に説明した言葉として、「義経記」の「静若宮八幡宮へ参詣の事」の段で書かれている。
後白河法皇は静御前の舞を「日本一」と賞賛し、そのとりなしで義経の愛妾になったようだ。現在の神泉苑は二条城の南にひっそりとたたずんでいるが、当時は内裏の南に位置して北は二条、南は三条まで、東西も東は大宮、西は壬生までと広大な敷地を有していたという。
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左女牛井跡の石碑 |
この二人が暮らしたのが六条堀川館。現在はその邸の中にあったといわれる左女牛井(さめがい)跡の石碑が堀川通五条下ル西側に建っている。いまは自動車がひっきりなしに行きかう通りの一角が、静御前にとってはひとときの安らぎの地だった。
このあと、義経は木曽義仲を倒し、平家を屋島から壇ノ浦に追い詰めて滅ぼしたが、兄の頼朝に追われて都を捨てざるをえなくなった。もちろん静御前も狩衣を着て男装し、吉野へ向かった義経と一緒に逃げたが、「女人禁制」の厳しい目をごまかせず捕まってしまった。静御前は頼朝方の手に渡され鎌倉へ送られて義経の行方を聞かれ、厳しい尋問を受けたりしている。この鎌倉以降の消息は途絶えてしまい、あとは各地に様々な伝承を残した。
貴族社会から武士の社会へ、大きな時代転換の渦の中で、武士の「妻」として後半生を生きた美しい静御前。その面影は、現代人の心の中には今も残っている。
【左女牛井(さめがい)跡の石碑】下京区堀川通五条下ル西側(市バス西本願寺前、堀川五条徒歩3分)
【神泉苑】中京区御池通神泉苑町東入ル(地下鉄二条城前徒歩3分)
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