幕末、徳川幕府の屋台骨がぐらつき始めた中で、「公武合体」という政策にのせられて宮家から14代将軍、徳川家茂のもとへ降嫁されたのが孝明天皇の妹宮、和宮だった。時代は米国をはじめとする列強が幕府に開国をせまり、その一方では尊皇攘夷をとなえる志士たちが巷で血の雨を降らせていた。
列強の勢いに押されて開国へ傾く幕府は足腰が弱ってきたため、朝廷の力も味方につけて建て直しを図るねらいがあった。朝廷へ親幕公卿を通じて降嫁を働きかけていたが、候補にあがっていた和宮はすでに有栖川熾仁(たるひと)親王との婚約が進んでおり、なかなか承諾しなかったという。
しかし、最期は孝明天皇の承諾を得て降嫁へこぎつける。そこには、熱烈な攘夷主義者だった天皇が幕府に対して「攘夷」の姿勢をとるようにとの要請もあったという。まさに和宮の降嫁は本人の意志とは別のところで、幕末の荒波の中で進められていったのである。
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和宮生誕の地 |
弘化3年(1846年)、仁孝天皇の第8皇女として生まれた。母は典侍、橋本経子。京都御苑にはその橋本邸跡がある。御所の東側の松林の中に皇女和宮生誕の地の碑が建っている。しばらくして姉の桂宮淑子内親王のところへ移ったという。この桂宮邸跡は京都御苑の北側。橋本邸から御所を回って約300メートル。ここにも碑が建っており、門が残っている。邸は明治になって二条城へ移築され、現在は本丸御殿として威容を誇っている。
文久元年(1861年)10月20日、和宮はここから江戸へ向けて約1カ月の御輿入れの旅に出発した。
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宝鏡寺 |
幼いときの和宮は、代々皇女が住職を務めていた門跡寺院の宝鏡寺へよく遊びにいっていたといわれ、ここが遊び場だったという。現在もそのゆかりの品が多く残されている。打敷や天目台、四季花鳥絵巻、小文箱(黒塗鳳凰牡丹文蒔絵)など数多い。また「鶴亀の庭」は幼い和宮の遊び場。亀の形をした築山では紙を敷いて滑り降りたという。宝鏡寺は皇室とのかかわりが深く「百々(どど)御所」ともいわれている。
このように、都から一歩も出ずに内親王として育った和宮にとって江戸へ行くことは、まさに「都落ち」。豪華絢爛な嫁入り行列は沿道(中山道)の人たちを驚かせたが、駕籠の中の和宮は沈んだ気持ちだったといわれる。詠まれた時は不明だが、こんな歌が「静寛院宮御詠草集」に残っている。
住み馴れし 都路出でて けふいく日 いそぐもつらき 東路のたび
落ちていく 身と知りながら 紅葉ばの 人なつかしく こがれこそすれ
【橋本邸跡】上京区京都御苑(地下鉄今出川徒歩5分)
【桂宮邸跡】上京区京都御苑(地下鉄今出川徒歩3分)
【宝鏡寺】上京区百々町(市バス堀川寺ノ内徒歩すぐ)
【二条城本丸御殿】中京区二条城町(地下鉄、市バス二条城前すぐ)
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