5月15日、葵の葉を頭にかざしたお供に守られ、牛車に乗った「斎王代」の行列が都大路を進む。1400年の伝統を誇る京都三大祭のひとつ、葵祭(賀茂祭)である。主役はもちろん、京都在住の娘さんが務める斎王代。十二単に身を包み王朝絵巻さながらのあでやかさだ。
もともとは五穀豊穣を祈って欽明天皇の時代に始まった賀茂祭がルーツ。江戸時代になって葵祭といわれるようになったという。
この伝統ある祭りの中心が斎王。平安時代初期、平城京へ戻ろうとする平城上皇と嵯峨天皇の対立から起こった弘仁元年(810年)の薬子の変。これに際して嵯峨天皇が賀茂の大神に戦勝を祈願し、願いが叶ったことから神に奉仕する女性を出仕させたのが斎王の始まりといわれる。
そこでまず選ばれたのが嵯峨天皇の第八皇女、4歳の有智子内親王だった。このあと歴代、皇女が斎王として賀茂の神に仕えていく。
有智子内親王は女性では数少ない漢詩人として知られており、天長4年(827年)に淳和天皇の命で編纂された日本初の勅撰漢詩集「経国集」などに作品が残されている。嵯峨天皇の子供のなかでも才能が豊かな皇女だったという。
その御陵は嵯峨山荘の跡に造られた。隣にある落柿舎は江戸・元禄時代の俳人、向井去来が営んだものだが、松尾芭蕉も数度訪れている。その庭には昭憲皇太后(明治天皇皇后)が「有智子内親王」と題して詠んだ歌碑が建っている。
「加茂川のはやせの波のうちこえしことばのしらべ世にひゞきけり」
独身の皇女から選ばれた斎王は数年の精進潔斎をしたあと賀茂斎院に入った。ここが斎王の御所になるわけだが、場所は都の北、紫野にあった。櫟谷七野神社に賀茂斎院跡を示す石碑が建っている。有智子内親王に始まる斎王は第35代の礼子内親王(後鳥羽天皇皇女)まで続くが、礼子内親王が延暦2年(1212年)に病気で退下されたあとは財政的な理由から廃止された。しかし歴代の斎王は平安文学の中心的な人が多かった。式子(のりこ)内親王は新古今集の代表的女流歌人で、「玉の緒よ 絶えねば絶えね ながらへば 忍ぶることの よわりもぞする」という歌は小倉百人一首にもとられている。
有智子内親王は退下したあとは嵯峨野に承和4年(847年)に41歳で没した。
斎王代は昭和31年(1956年)、戦争で中断しその3年前に復活した葵祭りに花を添える意味もあって始まった。
【賀茂斎院跡】上京区上御霊前通智恵光院東入(櫟谷七野神社内)(市バス天神公園前徒歩10分)
【歌碑(落柿舎)】右京区嵯峨小倉山緋明神町(阪急嵐山徒歩20分、京福嵐山徒歩10分)
【有智子内親王陵墓】右京区嵯峨小倉山緋明神町(阪急嵐山徒歩20分、京福嵐山徒歩10分) |