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「大阪再発見のつどい」〜なにわの町人学者と私塾〜

(2 )自由な学問の土壌

高島   いま師匠がおっしゃったように、たしかに現在の大阪を考えると、学問の町だっていうのはピンとこない。でもやっぱり必然性があるんです、大阪から町人学者が…。幕府おかかえの学者じゃなくて。そのあたりのことを。

古川   やはり、「読み・書き・そろばん」というところから始まるとおもうんです。私、こう見えても研究者なんで。<笑い> そこから始まって、こうやって(会場配布の資料に)書かしてもらってます「上方」という雑誌なんですが、今から75年、80年前に大阪が一番賑やかで活気があった時代なんです。大大阪といいまして、大阪が日本でナンバーワン、世界で第6番目の巨大な都市やったときなんですね。そのときに、大阪でいろんな研究があって、それの集大成が、ここに出させていただいた「上方」という雑誌。で、いろんな学者が(大阪を)研究するんですね。これをまとめた人が南木芳太郎(なんき・よしたろう)という、町人学者。町の一介の人が勉強して、いろいろ調べてそれをまとめはったんですね。

高島   南木芳太郎については、あとでくわしくもう一度話してもらいますが、すごい人なんですよ。そういう人たちがたくさん出てくる大阪の風土についても話していただけますか。

古川   そうですね。江戸時代からずっと大阪の研究というのは契沖(けいちゅう)というところから始まって…。契沖いいますのは今の上町の空堀あたりにおられたお坊さんで、大阪の研究を一番最初に系統的になさった方です。郷土というか大阪を知ろうという学者がいっぱい出てくるんですね。それは江戸時代以来、連綿と続くわけなんですね。

高島   そういう意味では有坂先生、いま出てました契沖の系統からも、きょうの資料に書いていただきました学者も出てくるんですね。

有坂   そうですね、和学・国学みたいな世界でも学者などが出てまいりますし、それから知的好奇心が江戸時代には大きかったので、あまりとらわれずに何でもする。だから、普通は学問といったら自分の流派みたいなものがきちんとあると思うんですが、そうじゃなくて、面白かったらお隣の流派もやってみるし、またこちらもやってみるし、みたいな。その中から自分が信じるものが出てくるという。

高島   そういえば「懐徳堂」についても、流派にとらわれないことをいった、有名な言葉がありましたね。

有坂   ええ、鵺(ぬえ)学問とかいいまして。

高島   鵺っていうと?

有坂   想像上の動物ですね。頭は猿で胴体は何とかで、しっぽはなんとかでと。なんでもやっているという(たとえ)。<鵺=頭は猿、胴は狸、尻尾は蛇、手足は虎、声はトラツグミに似ていた>

高島   「懐徳堂」の学問は、誰々の学問と何処何処の学問をくっつけただけやないかという批判を受けたりするんですよね。でも、それは大阪人の自由闊達な気風が、よいと思う学問はどんどん取り入れていった結果なんでしょうね。

 「懐徳堂」は、明治2年に終わってますけど、「懐徳堂記念会」がその学風を受けついだ活動を継続していますし、実は、この懐徳堂と適塾を精神的な源流としているのが、今の大阪大学なんです。

春之輔  阪大といえば、この前のトークのゲストやった武田佐知子先生は、あの時は大阪外大の教授やて聞いてましたけど、その後、阪大と合併して、阪大の副学長になりはったんですって?

高島   ええ、その武田副学長から聞いたんですが、阪大では梅田あたりに「21世紀懐徳堂」を立ち上げる構想があるみたいですよ。そういえば、近代になっても大阪は学問の町だったということで忘れていけないのは、皆さん意外に思われるかも知れませんが、湯川秀樹さんが戦後にノーベル賞をとりますね、一般に京都大学の教授だってお考えですが、湯川さんが中間子論を構想したのは阪大の講師のときです。阪大のあと京大に移るんです。あのノーベル賞を生み出した発想だって、大阪・中之島の風土から生まれたんですね。そうして考えると、今まで大阪が学問の町だってことのアピールが少なすぎたから、さきほど師匠がおっしゃったように、ちょっと違和感があって、「吉本、たこ焼き、タイガース」だけの町みたいに思われてしまいますね。

 有坂先生も古川さんと同じ、西長堀の大阪市史料調査会におられたのですけど、その場所は昔…。

有坂   ちょうどその場所は北堀江5丁目という所にあたるんですけれども、木村蒹葭堂(きむら・けんかどう)という江戸時代では著名な文人が生まれて育ったところ。家業は造り酒屋をしていたということになっているんですが、ちょっと体が弱かったこともあって、幼い頃から勉強が好きで、いろんな学問をする。その中で、一番よくしたのが本草学。いまでいうところの薬学。これをとっかかりにしまして、絵も描きました。画家としても有名。それ以外にもいろんな物を集めたりとか、本を集めたりとかでも有名でしたし、あと煎茶、篆刻(てんこく)もやっていました。いろんなことをして業績をあげていったことで有名な人だったんですね。

 レジュメのところにビックリするようなお顔がついているんですが、初めてご覧になった方はビックリされると思うんですが、これが蒹葭堂のお顔としてよく知られているものであります。描いたのが谷文晁(たに・ぶんちょう)という有名な画家で、お名前は聞かれた方があると思います。非常に贋作が多いということでも有名ですが、これは正真正銘、蒹葭堂が亡くなってすぐあとに、家族の人から頼まれて…。谷文晁と蒹葭堂、交流がございましたので、「主人が亡くなったので、是非描いてくれ」というふうに頼まれて、谷文晁がそれではと、亡くなって数ヵ月後に描いた肖像ということになっております。ですので多分、本人はこんな顔だったのかなと。意見が分かれるところで、福福しいお顔というのと、先ほど楽屋ではジャイアント馬場のようなという声も…。

高島   いまのお話で興味あるのは、江戸時代の大阪を代表する木村蒹葭堂ですが、造り酒屋の出身だったということですね。大阪の学者って、わりとそういう商売のおうちから出てきた人って、たくさんいるんですね。

有坂   ええ、そうですね。多いですね。レジュメのほうにもあげているんですが、たとえば山片蟠桃(やまがた・ばんとう)などという人なんかは…。大名貸しという、お金を大名に貸している、そこの番頭さんをしていた人物ですし…。お金のことをいろいろと研究して、物価のこととか貨幣のことをやった草間直方(くさま・なおかた)という人、この人も鴻池の別家のおうちの人です。要するに家業を持っていて、商売をしながら学問をするというパターンが多く見受けられますね。

高島   天文学をやっていた間重富(はざま・しげとみ)は質屋さん。商売から出てくる。そしてある段階で学者として、それも趣味のレベルじゃなく、その分野、分野で日本のトップクラスに立つ学者が多いですね。こういうのを総称して町人学者といいます。いまの山片蟠桃などは典型的で、名前が、番頭さんだったから山片蟠桃というように、本人もそれを引きずってるんですね。

春之輔  シャレでっか。

有坂   シャレで…。はい。

高島   この人なんか、大阪府の方で「山片蟠桃賞」というのをつくりましてね。大阪のこととか、日本のこととか研究してる外国人に賞をあげてるくらいです。

有坂   山片蟠桃は地動説を(日本で)一番最初にいい始めたというか、受け入れて紹介した人物なんですね。

高島   江戸後期というか、幕末の人ですよね。その人がコペルニクスの地動説を広めたというのはすごいでしょう。大阪の合理主義っていうのは、さっき出ましたけれど、まさにそういうことなんですね。

有坂   それでいいますと、山片蟠桃は辞世の句というのを作っておりまして、ひとつは「地獄なし 極楽もなし 吾もなし ただあるものは人と万物」という、地獄も極楽も自分・吾なんていうものもなくて、あるのは目の前にいる人とあらゆるもの・万物なんだという句と、「神仏 化物もなし 世の中に 奇妙不思議のことは 猶なし」といっておりまして、要するに自分の目で見たものしか信用しない、というようなことをですね、本当に一町人がいっている…。

高島   いまの辞世の句はレジュメにも書いていただいてるんですが、すごいですね。「神仏 化物もなし」っていうのは。私、ちょっと天満宮にもかかわっていますので、こんなこといわれるとこまるんですが。

 きょう配布しました資料(天満天神繁昌亭界隈ぶらぶらマップ)、桂三枝さんに頼まれて私、書かせてもらったんですが、繁昌亭から少し北に行った所に天満寺町があります。東町、西町に別れていますが、この地図見て、きょうの帰りに行ってくださいね。そこにね、いまお話しました山片蟠桃のお墓があるんです。善導寺っていうのがあるんです。この地図にも書いてあるんです。繁昌亭のちょっと北にあがったところにね。その東のほうに行くと、あとでもう一度名前出てくるとおもいますが、適塾の緒方洪庵の墓があったりですね。

 あるいは、それほどメジャーじゃないかもわかりませんが、さきほどの「懐徳堂」で教えていた五井持軒(ごい・じけん)という人のお墓があったり。この寺町は大阪が生んだ大学者のお墓がずらっと並んでいるんです。もしお寺の門が閉まっていても、表に石碑が建ててありますので、それを見るだけでも大阪っていうのは実はたくさんの学者を生み出しているんだなあってことがわかります。

 そういう意味では山片蟠桃あたり覚えておいていただいたら、大阪の番頭さんがこういうふうな大学者になりはったんやなあってこと、わかると思います。

 それとね、有坂先生、私ちょっと興味あるのはですね、きょう作っていただいた資料の中で、麻田剛立(あさだ・ごうりゅう)とか間重富って、これ天文学者ですよね。なんで大阪でこんな天文学者が…。

有坂   なぜかわからないんですが、麻田剛立に関しては、もともとは豊後の杵築の藩士だったんですね。藩につとめながらお医者さんをしていたんですけれども、小さい頃から天文学に興味があって、自分で夜空を見て研究していたんです。でも武士の生活ということで束縛が多い。なかなか夜に天体観測をすることもできない。ということで、自分は職を辞して天文学をやりたいんだと言ったんですが、なかなか藩は認めなかったんですね。しかたなく脱藩という形をとりまして、許可を得ずに藩を抜け出して、たまたま知り合いがいた大阪のほうにやってきまして…。そして大阪のほうで好きな天文学を思う存分するということになったんですね。間重富はそこに入学してきた生徒のひとりということになります。

春之輔  脱藩してまでというのはすごい決意なわけなんでしょうな。

高島   藩を出て大阪に来て、大阪がまた自由な学問を認める風土だったんで、みなさん集まって来るんでしょうね。落語の世界でも師匠は、自由にさせてもらっているという…。 <笑い>

春之輔  話が違うちゅうねん。<笑い>

高島   そうですか。大阪の豊かさを感じたりしますけどね。当時は大阪にいようが、どこにいようが、空がスモックで汚れているわけじゃないから、べつに天文観測に不自由もなかったんでしょうしね。間重富という名前はご存知なくても日本地図を作った伊能忠敬(いのう・ただたか)っていう名前はよくご存知でしょう。伊能忠敬は彼の弟子なんです。天文学と地図作った人、どういう関係やっておわかりですよね。天体観測の中から正確な地上の方位なりを測定していくわけですからね。

 そう考えていくと、きょうのトークを聞かれる前に思っていたより、豊かな学問風土があったということを、おわかりになっていただけたかと…。

有坂   もうひとつだけつけ加えますと、麻田剛立と間重富たちのグループの天文学は、当時の日本で一番すすんでおりましたので、江戸時代に使われていた暦を新しくするという事業のときには彼らが抜擢されて、江戸で暦を作り直して、それが日本で行われるということになっています。

高島   寛政の改暦。

有坂   18世紀の終わりですね。

高島   幕府が改暦を考えたときに、何をしたかというと、存知のように幕府は昌平坂学問所を持ってるでしょう、ところがそこの学者じゃなくて、わざわざこの麻田剛立に江戸へ来てくれと頼むんですよ。ところが麻田剛立は大阪の風土に馴染んでますから、そんなもん権力に近づいてどうすんねんと断って…。師匠がほらこのあいだ、人間国宝断りはった、ああいう感じ…。

春之輔  余計なこといいなはんな。<笑い>

高島   ごめんなさい。<笑い>それで弟子の間重富と高橋至時(たかはし・よしとき)をそのとき、弟子を送り込むんです。麻田剛立の弟子が日本全体の暦の改革をやるということですから、決して私たちは大阪にいるから大阪の学者を大きく取り上げているのではないんですよ。幕府も認めざるを得ない。だから、たしか「懐徳堂」も昌平坂学問所より上だという評判がたつんですよね。

有坂   ああ、そうですよね。学問の内容が…。

 

 

 

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