産経関西(産経新聞大阪本社公式ニュースサイト)

立花エレテック社長 渡邊 武雄さん(63)(3)海外事業へ

クビかけて社長に直訴

 希望していた営業部門ではなく、人事に配属された私は「今のうちに管理部門の仕事を全部覚えてやろう」と思い、心を入れ替えて仕事に臨みました。

 3年は我慢しようと思っていた人事には結局、10年いました。就業規則や賃金規定、評価規定を整備したほか、学校を訪問して求人活動にも力を入れました。人事記録の管理では当時珍しかったコンピューターの使い方を習いましたが、これは後になって随分役に立ちましたね。

 当時の社長は佐竹孝雄さんという方でした。人事にいたことで、社長の経営に対する考え方を勉強できたことは大きかったです。社長の意図を自分なりにかみ砕いて、提出しても却下されない資料をつくる。そんな資料を毎回作成できるかどうかが勝負でした。

 折からの第2次石油危機で不況になり、人事にとって重要任務のひとつである求人に力を入れなくてもいい状況になっていました。そこで私は佐竹社長に配置転換を直訴したところ、ある部門に行かないかと打診されたのですが、あえてそれをお断りし、「これからは海外の時代。貿易や海外事業をやらせてください」と頼んだのです。

 当時、立花商会(現立花エレテック)は輸入品のチェーンを展開していましたが、うまくいかず、佐竹社長はもうやめようと考えていたようです。そんなときに、私が社長の打診を拒んでまで海外事業をやらせてくれと訴えたのですから、その場は険悪な雰囲気になりました。それでも「あと3年待ってください。3年たってうまくいかなかったら首になります」とお願いして、その場で海外事業担当を命ぜられたのです。

 同時に私は、佐竹社長にこんなお願いもしていました。「会社にとって新規の事業をやるのだから、こちらの提案にはすべてイエスとうなずいて応援してほしい。ノーはなしです」

 私は長く人事にいたので、将来起業するためにも第一線で自分の力を試してみたかった。佐竹さんは亡くなられましたが、私のわがままを聞いてくださった恩義は強く感じています。

 海外事業では、日本メーカーの製品を外国の企業に取り次ぐ輸出業務に焦点を当て、市場も東南アジアに絞り込みました。事業計画を担保に会社に借金を申し入れ、必死で取り組んでいるうちにバスダクト(ダクト型のカバーが付いた配線)や電線で注文が舞い込むようになり、事業全体が黒字に転換できました。

 また、立花商会で初めての海外拠点となるシンガポール事務所を設立しました。この海外事業の黎明(れいめい)期に、当時常務だった玉置賢二郎さん(故人)の指導や応援を得られたことがとても大きかったと思います。玉置さんは私の第2の恩人です。

(聞き手 森田晶宏)
 

前の記事:立花エレテック社長 渡邊 武雄さん(63)(2)社会勉強 »

後の記事:立花エレテック社長 渡邊 武雄さん(63)(4)社長就任へ »

ホーム

PR 特選情報

アテックス-バナー

フォトニュース

「撮影者:ちか / 撮影場所:大阪府枚方市 / 撮影日時:2007年7月」 井村仁香さん DGR00044G090108D.jpg
DMS00011G090108D.jpg DMS00004G090108D.jpg DKL00010G090108D.jpg
巣山古墳の外堤から見つかった約100メートルにわたって続く葺き石=奈良県広陵町 「関ヶ原」1年前の書状 徳川秀忠、黒田如水あて 正装で1年間の精進を誓う芸舞妓たち=京都市東山区の祇園甲部歌舞練場