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南都銀行頭取 植野 康夫さん(64)(2)支店時代

不得意でも報われた努力

 昭和43年に大阪府立大学経済学部を卒業して、南都銀行に入行しました。就職は地元志向だったので、民間なら南都銀行ということは頭にありました。

 大学時代は「日本経済史」のゼミに入っていました。数学はあまり得意でなかったので、理論的な経済学は好きじゃなかったですね。大学時代の勉強では経済のことはよくわからなかったけど、銀行だといろいろとわかるんじゃないかということもありました。

 入行後、まず、わたしの出身地である大淀町の隣町である吉野町にある上市支店に配属されました。

 この上市支店には6年間いましたが、最初の2年間は当座預金などの事務を処理しました。そろばんは不得手でしたが、手形・小切手法はよく勉強していました。3年目で外回りの営業を担当するようになりました。

 当時は金利の規制があって、各行が自由に商品で競争することはありませんでした。ですから、外回りの担当者は足しげく通って、話術巧みに自分を売り込むができるキャラクターの人が有利です。でも、わたしは人前で話すのは得意でなくて、スタートのころの営業成績はたいしたことはなかったですね。

 外回りの営業を担当していた同期は高校卒、大学卒のトータルで50人ほどいましたが、成績は真ん中ぐらいでした。

 入行して6年目のとき、何度も訪問していたある建設会社の社長が1000万円の定期預金をしてくれたことがありました。努力は報われるのだと思って、すごくうれしかったですね。

 関西の地方銀行は現在、優良な貸出先を求めて競争をしているのが基本的な構図ですが、昭和40年代は、預金を集めるのが何よりも大事でした。日本経済が成長過程にあって、集めた預金を大阪や東京の企業に貸し出すのに困らない時代だったのです。

 預金を集める仕事はあまり自分に向いていないなと思いながらも、ずっと外回りの営業を担当していましたが、御所支店(奈良県御所市)に転勤した昭和55年に、初めて融資を担当することになりました。本部から各支店に融資推進の細かい目標が初めて指示されたのは57年です。

 (聞き手 佐藤安律)
 

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